ノンデュアリティのその先へ

ブログを更新するのはすごい久しぶりです^^;

今日はご質問にお答えしたいと思います。

先日クライアントさんからこんなご質問をいただきました。

全ては幻想という非二元の目覚めを語る人いますが
5次元アセンションの目覚めを語る人もいて、
どっちが正しいんでしょうか?

確かに、何も起きてない派のノンデュアリティの目覚めと、
アセンションの目覚めは時にメッセージが矛盾していたりして混乱しますよね。

それに対しての答えを私なりに解説したいと思います。

根源である源(ソース)は、
周波数を下げ、次元を下げる(ディセンション)ところから
今度は周波数を上げ、今後は次元を上げて(アセンションして)いきます。

上から下へ下降し、下から上へ上昇するのはエネルギーの基本的な動きです。

だけどその旅路は人間が理解できるような直線的なものではなく、
すべての次元は同時に発生しているともいえます。

すべてのソースの中でどこに意識の光が当たるのか、
それによって知覚できる世界が変わるーという感じです。

私たちの住んでいる世界は3次元空間。
ここは肉体を体験出来るーつまり分離を体験できる世界ですね。

私たちの意識の焦点は3次元視点に幽閉されているので
それ以上の次元の世界を知ることができませんでした。

だから「有る」から「無い」へパラダイムが変わると、
3次元の現実に起きてることだけを指して、
何も起きてないという「考え」に限定されてしまいますね。

もちろん「源」という究極の視点に立った時、
何も起きていないという考えは正しいと思います。

1つである意識は1つ1つ階段を降り、
また1つ1つ上に上るけれども、
同時に、既に一体であるからです。

どの視点から語っているのかの違いがあるだけで
すべてのアイディアが正しいと言えます。

だけど、何も起きていない(から何もしなくていい)という概念は
せっかく意識を上昇しようとする私たちの、
心を閉ざすことになりかねません。

ノンデュアリティはゴールではなく、
ノンデュアリティ(悟り)の先にアセンション(次元上昇)があります。

次のステージへ

さて私たちは長い長い旅を終えて次のステージへ目覚めていきます。

私にとってこれほどにワクワクすることってありません。

もしかしたら、悟りとか目覚めとか、
こんなことに(って言っちゃいますが)
興味ある人は人口の1%くらい?かもしれません。

多くの人が見向きもしないこの世界に
なぜ私たちはこんなにも惹かれるのでしょう。

それはあなたのハートに目覚めの種があるからです。

だからこそ、こういった情報に触れ、
内なる目覚めの種に光が当たっているんです。

目覚めのために大切なこと

私なりに大切だと思う4つのことをまとめました。

1 宇宙の仕組みを知ること 
知識は私たちの意識を拡大させてくれます。
知ることで意識の向け方が変わり、変化を促してくれます。

2 自分に対して無条件の愛を向けること
目覚めのプロセスでこれほどに大切なことはないでしょう。無条件の愛がソースの本質だからです。だけどこの4つの中で1番難しい部分ですね。

3 意識のクリアリングに取り組むこと
3次元地球では、分離を体験するためにたくさんの重い周波数を使ってきました。
孤独感、無力感、絶望感などです。
これらの感情的エネルギーは重く、上昇するエネルギーとは反対のものです。
こういったエネルギーは感謝をしつつ本質の愛のエネルギーへ変換してあげる必要があります。

4 喜びを生きる、自分の中心軸を育むこと
中心軸とは「自分である」という感覚のこと。自分という中心から、喜びを生きることです。喜びはソースの本質です。

上記のことを盛り込んだワークショップを10月に開催します。
宇宙の仕組み、エネルギーワークのやり方や喜びにフォーカスするやり方など。
上記の内容にご興味がある方はぜひいらしてください^^

 icon-angle-double-right 本来の自分に目覚めよう|意識のクリアリング講座   2018年10月27日28日

残席1名 ホロスコープから魂のブループリントをリーディングする講座も開催します
 icon-angle-double-right ホロスコープで魂のブループリントリーディング 2018年9月22日23日

最後までお読みいただきありがとうございました♪

ルパートスパイラ ” There is something to do.”

ルパートスパイラ

するべきことはある。


ルパートスパイラさんの講話 ” There is something to do.” を翻訳しました。

参加者の質問はこんな感じー。
「 全てはただ起きているだけで、私がするべきことは何もないことは分かっているのですが…
癒したい、癒されたいという衝動が起こるんです。
でも、「私はただ観察しているだけだ」とも思います。
この二つの考えを行ったり来たりして悩んでしまいます。

ルパートさんはこれに対して、
「ネオアドヴァイタの「何も起きていない」といったビリーフを
鵜呑みにしないでくださいね。」と語りかけます。

ちなみに ネオアドヴァイタとは、トニーパーソンズ や ネイサンギルなどを筆頭にした
新しいアドヴァイタの概念だそう。

ネオアドヴァイタと言われるティーチャー達は、人間的なストーリーに巻き込まれる事無く、
「何も起きていない」といったシンプルな言葉で、本質を伝えてくれますね。
それはとても大切なエッセンスだと思います。

ちなみに、本当の私(本質)を言葉で表現するのなら、
「何も起きていない」とか「誰もいない」は確かにより近しい表現です。

それでも、本来意味のつかないものを言葉にするという時点で
どうしても矛盾してしまいますね。

もし、聞き手が生まれたばかりの赤ちゃんか、机か椅子なら、
「何も起きていない」を、きっと本質通りに捉えてくれるでしょう。
つまり、そこに意味を付けず、ただの音としてあるがままに受け取ってくれるからです。

でも、私たちは自我を通して「解釈」します。

たとえば、「何も起きていない」と言えば、
何をやっても意味が無いー無駄だーというようなニュアンスをくっつけてしまうかもしれません。

非二元の教えを、解釈を通して暗記してしまうと、
本質が織りなす「それ」とは、どうしても違いが生まれてしまうんです。

それなら、その違いにこそ注目してみたらどうだろうと思うのです。

本質は、世界に一切の区切りを与えず、ジャッジせず
ただただ喜び1つで表現しています。

逆に自我は、いつでも思考の檻の中。
「何も起きていない、意味が無い」(無力感)とか、
「全ては完璧だから、何もしない!」(怒り)というように、
世界から自分を切り取り、より頑丈な鎧を重ねていきます。

 


本質から切り離された感覚は心の傷に


動画の中でルパートさんは、
「本質から切り離されたという感覚は
分離された自己のハートの中に、傷として存在します。」
と語ります。

ハートの傷、
それは、単純につながりを求める叫び声です。

このハートの傷(苦しみ)が作動するということは、
「私だ」と信じているものがここにあるよ、
「分離を許すものがここにあるよ」
という愛あるサインなんです。

だから、何もすることはないといって
その叫び声を無視しないでください^^
ぜひその叫び声を聞いてあげてほしいと思います。

それは、切り離された何かから、
ホームへ戻ることです。

自我の錯覚から現実へ戻ることですね。

それは、苦しみのスイッチをヒントに、
よく思いを見つめるところから始まります♩

ルパートスパイラ There is something to do.

悟りのQ&A 非二元を理解できれば、おおらかに死を受け入れられますか?

悟りのQ&A

大切なペットを亡くされたという読者の方から
死についてのご質問を頂きました。

私も子供の頃からずっとペットと一緒でしたので、
大切な家族を失う辛さはとてもよく分かります。

まず、心に大きな痛みがあるときは
体をいたわり、寄り添い、適切にケアをなさってくださいね。

十分にいたわった上で、
その上で、1つ1つみつめてみましょう。

また、私の言う事よりも、ぜひご自身の中に沸き上がる答えを一番大切になさってくださいね。

まずはご質問から

icon-quote-left 非二元の本が好きで読んでいました。
死んだ後も死後の世界があるという話は、
私の存在が消えることへのエゴの抵抗が作り出した話だと思い、信じなくなりました。

私は中途半端に非二元の知識だけあり、
死んだ後、個人の意識が残るとは思えず
愛猫の意識ももう消えてしまってないんだと思っています

自分が死んだ時、天国の虹の橋で大好きだったペットと再会できるという
虹の橋という話があります。この話はペットロスの人の間で救いになっていますが、私にとっては救いが無くむなしいです。

覚醒体験もしたことがなく非二元も理解できていないので
自分はこの体でこの心で愛猫とはちぎれた存在なんだと強く思ってしまっています。

非二元を理解できれば、最愛の相手の死もおおらかに受け入れることが出来るのでしょうか icon-quote-right

まずは、「非二元が好きで、魂の話がむなしくなった」ーとのことですが、
非二元を知る前はどうだったのでしょう。

「非二元の知識があることで、個人の意識が残るとは思えない」ーとのことですが、これも、非二元を知る前はどうだったのでしょう。

よくひも解いてみると「誰もいない」というような非二元のメッセージが
むなしさの原因になっていませんか。

「私と愛猫はちぎれた存在だ」ー
ちぎれるーという言葉は、1つのものから分裂するというニュアンスを含んでいると思いますが、
それも非二元的な知識が含まれている気がするのです。

文章で伝えるのは難しいと思うのですが、
「誰もいない」「何も起きていない」というような
非二元の教えがただの知識、つまりただの「思い込み」になってしまうと
そこから苦しみが生まれます。

言葉で本当の私たちを例えるなら、
「何も知らない」が一番近いと私は感じています。

「誰もいない」は適切な表現だと思いますが
「無い」を理解するには、「有る」と「無い」を区別できないといけませんね。
本質は、「だれ」という概念も、「無い」という概念も知りません。
知識で何かを分けたり固めたりしないのです。

だからこそ、より本質に近い生き方は、
何を信じて苦しんでいるのかを見つけて、
ホームに戻ることだと思っています。

ここでの苦しみの原因は、
◎愛猫の意識はもう消えた
◎個人の意識も消える
◎ちぎれた存在だ
という、非二元をベースにした「思い」ではないでしょうか。

その思いは、本当に本当に?真実なのでしょうか。

目をとじて、
本当に、
その愛猫ちゃんの存在を感じられないのでしょうか。

 

本当に?
よーく感じてみてください。

 

知識で世界を区切らなければ。
私たちはいつでもつながっています。


ここで少し視点を変えてみたいと思います。


あくまでも例ですが、
もし「あなた」が亡くなったとして….

残された大切な家族、子供達が
あなたの死を受け入れられず、孤独感と喪失感でいっぱいで、
真っ暗な毎日を送っていたらどうでしょう?

悟り 

逆に、あなたとのつながりを感じながらも、
悲しみや寂しさを受け入れ、死を受け入れ、
ハートから生きていけるとしたら?

悟り

どちらがいいかと聞かれたら、
私は自信を持って後者の方がいいと答えます。
私は私の死を受け入れてもらいたいーそう感じます。

こうやって視点を変えてみると、
本当は私たち、私たちの死を受け入れてほしいのではないでしょうか。

文章で適切に伝わるか分かりませんが、
年老いること、
病気になること、
失敗すること、
負けること、
死ぬこと、
本当の意味では、全てありのままを受け入れてほしいのではないでしょうか。

そして「本当の私」は、
「死」という切り離しもせず、
何も否定せず、
あるがままをただただ愛しています。

ありのままのあなたと、
ありのままの世界をただただ愛しています。

あなたの最愛の人も、
あなたも、
死も
その愛でできています。

死の根底にとても深い愛が隠されているんです。

世界は、それでも大丈夫だよ、とあなたを包んでいるんです。

 


死をおおらかに受け入れられるようになるのでしょうか?


もし私が最愛の家族やペットを亡くしたら。
きっと大泣きするでしょうね。とても悲しむと思います。
(がっかりしましたか!?)

何か違いがあるとしたら…
その悲しみが許されていることを知っているだけなんです。

その悲しみの下に深い愛があるということ、
死の底に深い愛があるということを知っているだけなんです。

そうやって、
ありのままの自分と
ありのままの世界に寄り添うということは
結果的におおらかな受け入れと言えるのかもしれませんね。

大切なのは非二元を理解しているかということより、
今、
本当の自分の思いに寄り添うこと、
自分の感情に寄り添うことなんです。
それは今この瞬間から出来ます。

悟りQ&A 世界は完璧?善悪についてどう考えたらいいですか。

悟りー善悪について

こんにちは♩ 今日はご質問にお答えしたいと思います。

icon-quote-left 私は非二元にとても心が惹かれるのですが、
ただ、善悪のことはどう考えたらいいのか分からなくなります。
たとえば、私は犯罪の被害者や飢餓で苦しんでいる人達についてニュースで聞くととても胸が痛くなります。なんとかしてあげたいと思うと眠れなくなるんです。

そんな時、世界は完璧、起きていることが起きているだけーというのは、
人としてどうなのかな?と思ってしまいます。
和花さんは善悪についてどのようにお考えですか? icon-quote-right

ご質問者さんの暖かな人柄が伝わりますね。
また、善悪については多くの方が感じる疑問ではないかなと思います。

まず、犯罪を許そうというつもりはないですし、
ましてや世界は完璧ーという「解釈」を伝えるつもりはありません☆

言葉で善悪を語るのは無理があるかなとも思っています。
だからこそ、私が大切にしたいと思っていることは、皆さんの中でなんらかの気づきが起こることです。

というわけで、早速、私たちの善悪が何か、一緒にみていきましょう。
ぜひ、あなたの中で答えを見つけてみてくださいね。

 


何が悪で、何が善なんだろうー


突然ですが、命を奪うことは「悪」ですよね?

多くの方が、最も非情な「悪」の1つだと感じるのではないでしょうか。
私もそう感じます。

icon-lightbulb-o さて、イメージしてみてください。

突然ですが、、、、
あなたに、体のつながった双子の赤ちゃんがいるとしましょう。
(結合性双生児といいます)

二人にはそれぞれ個性があり、あなたにとって大切な家族です。

ところが二人は1つの心臓をシェアしています。

手術をすると、一人は必ず助かりますが、一人は必ず死んでしまいます。
手術をしないと、二人とも必ず死んでしまいます。

 

さぁ、あなたはどうしますか?

 

今、あなたの選択で、人の命が左右されようとしています。

 

一人を救うことが正義なのか、
選ばないことが正義なのか?

 

もちろん、正しい答えを見つけようという問いかけではありません。
ただ、感じてもらいたいのです。

時としてものごとは、100%の善悪、白黒をつけることが難しいということ。
そして、白黒が表裏一体でとても矛盾しているということー。

 

実際、人生では曖昧なことがたくさんありますよね。

それにも関らず、私たちは、例えば「うそつきは悪」とか「貧乏は悪」などと、何かの行動や状態をマルっとひとまとめにして、善か悪か、黒か白か分けようとします。

善悪

もちろんこれはある程度、仕方がないことです。
生きていくうえで、役にたつこともたくさんあると思います。

でも、よくよく思考を観察すると、この究極の2分割に陥って周りが見えなくなり、苦しんでいることがほとんどです。

例えば

  • 独身は負け組だ。
  • 世の中は危険だ。
  • 彼はうそつきだから信用できない。

など。

 

出来事は、24時間の中でほんの2分かもしれないし、
3年の間にたった1日だったかもしれないのに、
A = B というように、絶対で永遠かのように信じてしまいますね。

実際は、100%絶対と言い切れるものごとなんて、ほとんどないのではないでしょうか。

例えば、独身が負け組だと信じる人もいれば、結婚は地獄だと信じる人もいます(笑)

命を奪うという事は、歴然とした犯罪(悪)ですが、
でもこれが戦争時代であれば、その人は讃えられるでしょう。

表現するなら、ものごとは実際のところこんな感じ。

悟りー善悪

 

同時に違う可能性があるのだから、黒と白の表裏一体で、
条件によって変化するのだから、黒と白のグラデーションのようなもの。

善悪の答えは、人生経験によって、そして国や文化によって、あっという間に変わります。

 


誰が善悪をジャッジしているの?


さて、この曖昧なグラデーションの世界のなかで、
ここからが悪で、ここからが善だと決めているのは誰でしょうか?

双子の例でいえば、一人を救うべきなのか、選ぶべきではないのかー
この曖昧な世界の中で、答えを出すのはだれなのでしょうか。

 

そう、あなたです!

 

何が「善」なのかー?
何が「悪」なのかー?

それはー
あなたの思考によって振り分けられたものーです。

 

誤解を恐れずにいうと…悪はあなたの頭の中!

 

もちろん、社会や親から教えられた善悪もあるでしょう。
それらを無条件に信じるしかなかったかもしれません。

それでも、同じ境遇で育った兄弟でも、信念が全く違うということはよくあります。

私たちが何かを信じるとき、どこかのレベルでは「あなた」が合意した善と悪なのです。

だからこそ、人によって答えが違うのですよね。

人や社会が、善悪を言ってくることはあっても、
誰一人、「私の」善悪のラインを決めることはできません。

それは私にしかできないのです。

 

icon-lightbulb-o じゃぁ何してもいいですか?

ところで、善悪が思い込みだとなると「じゃぁ何してもいいの?」とか、逆に「何もしなくていいの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

でも、これをひも解くと、「(悪い事でも)何をしてもいいの?」、「(ひどい世の中なのに)何もしなくていいの?」というジャッジがベースにあると思うんです。そういう意味で、思い込みに思い込みが重なっているだけですね。

なので、「(悪いことだけど)好きな事だけして生きる〜」とか、
「(だめな私でも)既に完璧〜!」と思い込もうとしているときは、実はとても苦しいでしょう。

さて、世界はいつも白と黒のグラデーション、白と黒の表裏一体。
誰かにとってOKかもしれないけど、誰かにとってはNGかもしれません。
ものごとは変化して、今はOKだけど3分後はNGかもしれません。
だから、白と黒のラインにしがみつくことは、元々意味がありません。

 

icon-lightbulb-o 今を大切にしよう

だから、善悪に分けて、悪と戦うよりも、
今日から、新しい選択をしてみませんかー。

 

それは、今起きていることを大切にすることです。

 

icon-quote-left  苦しんでいる人がいるー
さぁ、私に何ができるだろう? 私は何がしたいんだろう? icon-quote-right

 

icon-quote-left   私はニュースを見て悲しいー
さぁ、この悲しみに向き合おう。 私を大切にしよう。icon-quote-right

 

そうすることで、私たちは自然と分かち合い、
お互いを大切にしあうようになります。

想像の黒と戦うのではなく、
今、起きていることー あなたの気持ちに正直になってください♩

それこそ本当の私ー
純粋に世界を創造する私に、一番近い生き方なのかもしれません。

ノンデュアリティの理解を深める② 〜距離って何だろう〜

ノンデュアリティの理解を深める

前回の 物ってなんだろう に引き続き、
今度は距離について見ていきたいと思います。

私たちは、自分の「目」で
立体的な奥行きのある、まさに3Dの世界を見ていると思っていますよね。

本当に?
100%絶対に?

それを一緒に確かめにいきましょう。


距離ってなんだろう?


 

ところで皆さん、写真って平面ですよね。

どんなに丸々としたりんごも、写真に写ってしまえば
ペラペラの平面です。

私たちはこの「写真」が、実際には奥行きがないことを知っています。

平面図を写し出す「カメラ」の仕組みは、
実は私たちの「目」と基本的に同じ仕組みなんです。

カメラは、入ってきた光がレンズで屈折してスクリーンに映し出します。

私たちの目も、瞳というレンズを通して光が屈折し、
網膜というスクリーンに風景を映し出します。

ノンデュアリティ 距離とは

 

つまり、目が捉える世界は、カメラと同じ。
あくまでも平面なんですね。ペラペラの写真と同じです。

目の中に丸っとした立体的なりんごができあがるわけではないんです。

そこから、どうやって立体的な世界を捉えるのかというのは、
完全には分かっていないそうですが、大切な要素はいくつかあります。

その中の1つのエッセンスをみていきましょう。

 

遠くにある物、近くにある物

さて、下記の写真を見て、
左右どちらの赤線が、長くみえますか?

ノンデュアリティ 距離とは02

 

おそらく右の線が長く見えるのではないでしょうか。

 

今度は背景を消して見直してみます。

ノンデュアリティ 距離とは03

実は、線の長さは同じなんです。

 

背景があると大きさが変わってしまうなんて、
不思議ですよね。

 

この体験の中に、「見ること」のヒントが隠されています。

 

まず、この絵はただの二次元的な平面ですね。
ただの絵ですから。

それにも関らず、私たちは奥行きを感じてしまいます。

 

ヒントは狭くなっていく線の形。

 

現実的にこのように道が見えるとき、
Bの地点まで距離があって、
時間がかかるということを
私たちは人生経験上、よく知っています。

ノンデュアリティ 距離とは05

ただのペラペラな三角とみることもできるのに、
そこに距離があって、時間がかかったという、
過去のパターンを参照しているわけです。

 

もし現実的にこのような道ばたで、
ケーキが同じ大きさで見えたのなら、

ノンデュアリティ 距離とは06

人生経験上、Bのケーキは近づいた時に、
実際にはめちゃくちゃ大きいことが予測されます。

こんな感じでね。
(夢のよう♡)

ノンデュアリティ 距離とは07
つまり、遠くにあるものと、近くにある物が同じサイズだとしたら、
「実際にはとても大きいはずだ」ということを
「経験的」に、「知識」で知っているんです。

そのために、自分が知っている「現実」に見合ったサイズに
見えてしまいます。

ノンデュアリティ 距離とは08

ノンデュアリティ 距離とは02

 

この経験から分かることは、
私たちは、100%正しい世界を見ていないーということ。

私たちは本当の世界ではなくて、
自分が納得できる、自分が知っている世界を見ています。

上の方で細まっているから距離がある…
同じサイズに見えるからこっちが大きい…というように。

あるがままに世界を見ているのではなくて、
過去の経験を見ているわけです。
(もちろん無意識で)

だから距離とは、奥行きとは、学習した過去の経験。

ただの「知識」、
思考のレッテルだと言えるんです。

 

話を変えて、例えばプラネタリウム。
本当に満点の星空の下にいるように見えても、
星までの距離はせいぜい2〜3メートルだと「分かって」います。

本物の夜空を見るとき、まったく同じ景色を見ながらも、
何万光年の距離があることを「分かって」います。

同じ景色を見ながら、そこに違いを与えるのは
「思考」のレッテルですよね。

 

私たちのこの目がとらえる世界は、
あくまでも平面。

それはスピリチュアルでもなんでもなくて、
生理的に起きていること。

だとしたら。

テレビまで1メートル…
家まで10メートル…
机まで50センチ….

今見えている世界から、
「距離」という概念を外したら?

プラネタリウムなのか、星空なのか、
何が10センチで、何が1メートルか、
あらゆる知識を外したら?

 

そこに距離がなくなります。

そこに奥行きがなくなります。

そこに時間がなくなります。

 

奥行きがないのですから、
「見えている世界」と自分の間に距離がなくなります。

 

世界とあなたはベタ付けなのです。
世界とあなたは分離していないのですよ。

 

もっと言うと、

そこにあなたがいるのではなくて、
「見る」があるだけ。

 

あなたがいるのではなくて、
あなたがテレビを見るのではなくて、
あなたが机を見るのではなくて….

あなたと見えている世界に距離がないのだから、
あなたは「見る」という経験そのものなんです。

私たちは、
見ることそのもの。
見る経験そのもの。

「見る」という言葉さえとってしまったら、
「それ」そのもの。

 

ひまなときに、ダイレクトパスの「見る」もやってみよう♩
http://nonduality.jp/悟りを体験的に理解するダイレクトパスー見る/

〜続く〜

 

悟りの理解を深める〜物ってなんだろう?〜

悟りの理解を深める〜物とは〜

先日、非二元の会を行いました♩

その時にお話させてもらった、

「物とは?」を記事にしたいと思います。

 

さて、
私たちは、自分のこの「目」で立体的な、奥行きのある、
まさに「真実の世界」を見ていると、そう思っていますよね。

本当に….?
100%…..?
絶対真実の世界を見ているのでしょうか?

それを一緒に確かめに行きましょう。


物、物質ってなんだろう?


まずはこちらの写真をよーくご覧ください。

悟りー物とは

 

白と黒のマーブル模様。

一体全体、なんだか分かりません。

 

 

でも、下記の写真をよーく見たあと…..

 

 

 

 

悟りー物とは2

 

比較してみるとどうでしょうか?

悟りー物とは

 

白と黒の絵の中に、
お寿司があるように見えてきませんか。
(特に、距離を取ると見えやすくなります。)

この体験の中に、「私たちが物を見る」ことのヒントが隠されています。

 

初めて見たときは何かは分かりませんが、
普段見ているまぐろのつやつやした赤い感じ、ご飯の白い粒、
お寿司らしい形を一旦認識し、
それが「まぐろのお寿司だ」ということが分かると、
白黒の絵の中に、お寿司が見えてきましたね。

 

つまり、
私たちは純粋に物を見ているのではなくて、
過去の経験や学習した知識のパターンを参照して
「これは○○だ」と決定しています。


だから、 「見る事は、考えること」 と言えます。

 

悟りー見るとは

私たちが何かを名前で呼ぶとき、
見ているものは、
「経験や知識」であり、

つまるところ、ただの「思考」なのです。

 

つまり、私たちの言う「物」とは、
こんな感じ。

悟りー見るとは02

「これはりんごだ」
と私きーめた!

です。

そこにりんごがあるのではなくて、
私(思考)が勝手に「りんご」と決めています。

誤解がないように、
私が意図的に決めているというわけではなく….
私の思考が物を作るというわけではなく…

「これが○○だ」という錯覚が起きているー
ということなんです。

もう少し非二元に近しい表現で言うと、
見るという体験(色の現れ)と、「りんご」という思考の現れ(ある意味音の現れ)が
偶発的に沸き上がっているだけ。

 

そして大切なエッセンスはもう1つ。

改めて、白黒のお寿司の画像を見たとき、
初めてみた時と同じように見えるでしょうか?

完全に、お寿司が無いように見えるでしょうか。

悟りー物とは

(この絵ではちょっと分かりにくいかもしれませんが)
ほとんどの場合、お寿司に見えてしまいます。

つまり、私たちは一度学習してしまうと
何も知らない目でみることが、とたんに難しくなってしまうんです。

もう二度と、意味のないマーブル模様を見る事が
できなくなってしまいます。

 

この体験から分かる事は、
私たちは意味のつかない世界を、純粋に見る事が難しい。
ということ。

 

私たちが、初めてこの白黒画像をみることは、
生まれたばかりの赤ちゃんが、純粋な目で、
世界を見つめることと同じです。

それは、本当の私が世界をみるときの
感覚と一緒。

赤ちゃんはそこから学習を重ねることで、
物の名前を、私という物を、学習していきます。

ちょっと荒っぽく言うと…
世界を勝手に区切っていくし、
勘違いしていくーと言っちゃいましょう。

全く意味のない白黒のマーブル模様と呼ぶこともできるのに、
「ここからがまぐろで、
ここからがご飯だってば!」
と区切っていくわけです。

そして「私」とか「個体」という錯覚が
できあがります。

それと同時に、
どんどん純粋な世界の見方を忘れてしまいます。

 

私たちは今とは違う見方をすっかり忘れてしまうので、
全人類が自分と同じ「物」を見ていると信じていますし、
「これがお寿司だ」ということを100%信じがち。

 

もちろん、今見えている世界が間違っているとか、
おかしいというわけではありません。

人間が生きていく上で、学習するという機能は
最も重要な機能の1つでしょう。

 

だからこそ、
学習した「物」ではない世界を
意識上で純粋に見るということは
実際のところ難しいーというかできないー。

 

この白黒の写真から、「お寿司を見ないようにする」と励むことは、
そこに「お寿司がある」という概念の上に成り立つ頑張りですよね。

悟りー物とは

お寿司がない世界を見られなくて苦しんだり…
お寿司がない世界を見るために自分を浄化したり、
励んだり努力したり….

それは、「お寿司がある」という前提での
苦しみや頑張りですね。

初めて白黒の画像を見たとき、
そんな努力があったでしょうか。

生まれたばかりの赤ちゃんが
「ママ」や「ミルク」を見ない!と頑張るでしょうか。

そこには、きっと好奇心だけだったと思うんです。

「わぁこれって何だろう?」

「そこには何があるんだろう?」

「もしかしたら、他の見方があるのかもしれない。」

そんな新たな可能性にワクワクしながら、

純粋に世界を見てみる。

それこそ、私たちができる、
本当の自分の見方に一番近い方法なのでしょう。

 

〜 続く 〜

ルパートスパイラー肉体は物質であるという考えー

ルパートスパイラ

(動画は一番下にあります☆)
ルパートスパイラさんの「死、そして肉体は物質であるという考え」
という講話の解説です♩

(翻訳は 気づきのダンス 溝口あゆかさんです☆)

講話の中で、ルパートさんは「物質とは何か」を
興味深く説明しています。

[highlight]「私たちは一度も肉体を経験したことがありません。
そもそも、肉体を経験するには、思考の外側で何かを見つける必要があります」[/highlight](5:46 頃)
と語るルパートさん。

どういうことかというと…

例えば
イチゴは物質で、
椅子は物質で、
肉体も物質で、、、
そして脳も物質ですよね。

 

もし脳という「物質」から意識が生じるのであれば、
イチゴに意識が発生しておかしくないですし、
ヘタにもあるかもしれません。
そして、ダンゴムシにも、みみずにも意識があるかもしれません。

 

実際のところ、脳という「物質」からなぜ意識が発生するのかという難題は
科学でも解明できていないそうです。

 

実は、「物質」から「意識」が派生している」
というスタート時点で、そもそも逆説的なんです!

 

私たちは
「この体(物質)が私だ」
と信じていますよね。

 

講話の中でもルパートさんが言っていますが
私である「肉体」は「肉体」そのものを
直接、経験したことはないんです。

 

肉体を直接経験するーということは、
イチゴが「イチゴ!」を経験して分かっていることですし、
ヘタが「ヘタ!」を経験して分かっていることですし、
肉体が「肉体!」を経験して分かっていることですが、
物質は物質を経験することができません。

たとえば、切断された足は「足!」を経験して
まさに足だと分かっているでしょうか。

足が足を経験するのではなく、
「足」という思いを通して「足」になるわけですよね。

 

つまり、
「物質である」、
「私は肉体(物質)である」は、
思考によって理解されているだけなんです。

物質が意識を生んでいるのではなく、
まず1つの意識が先にあり、
そこに何十億という分散した意識があり、
そして、その先に「物質」という思考が現れています。

 

私たちは「意識」なんです。

 

さて、このことを分かりやすく説明したルパートスパイラさんの講話。
この物質主義が続くとどうなるのか…
という例えが興味深いですよ。(12:05頃)

【 コンテンツ内容 】↓ 動画の主な内容と該当の時間がわかります。
1:54 唯我論(私の意識が現実を作っているという考え)は非二元とは違う
4:22 自我とはー
7:08 物質とはー
12:05 物質パラダイムが続けばー

ルパートスパイラ 〜気づき(覚醒や目覚め)後の行動〜

ルパートスパイラ 気づき(覚醒・目覚め)の後の行動

( 動画は一番下にあります☆ )

お金があれば…結婚すれば….覚醒すれば…。

思考という錯覚の世界に住んでいる時は、
私たちは幸せや安心というものを
「物」とか「状態」で得られると信じています。

覚醒体験で分かったことの1つは、
私が今まで信じていた「幸せ」というものは、
ただの「興奮」とか「高揚」に近いものだったということでした。

 

本当の私たちは、絶対的に均一で、恐れのない至福感覚です。
(と同時に恐れも内包しているのですが)

 

私たちは多くの場合、「不足している」「欠けている」という恐れがベースなので、
何かを得たり、何かを改善したりすると、
一時の「高揚」が得られます。

 

でも、「高まる」という感覚そのものは、
「低い」を知らないと経験できません。

 

私たちはただ、「低い」と「高い」の思考のジェットコースターに乗って、
上がったら高揚し、下がったら絶叫しています。
でも、ジェットコースターの高揚や恐怖は
これは「いい」、「悪い」という
ただの「自分の思考」なんですね。

そして上がるためには下がらないといけません。

 

もちろん、いわゆる幸せな体験を否定するつもりは全くありません。
人生、嬉しいこともたくさんありますよね♩

 

だけど、そういったものが、成功者と負け組に分けたり、
幸せ者と不幸者に分けることはないんです。

それができるのは、「思考」だけ。

 

そのことがわかると、私たちは「足りない」から「今持っているもの」へー
そして、「満ちた世界」へ目を向けることができます。

 

icon-th-large さて、ルパートさんの「気づき(いわゆる覚醒や目覚め)の後の行動」という講話では、
上記のような変化について語っています。
【 コンテンツ内容 】↓ 動画の主な内容と該当の時間
01:17 気づきの後、どう変化するか?
04:53 世界に意味付けをするものとは…
05:33 私たちは自分の経験を好きなようにみることができる

参照元 URL https://www.youtube.com/watch?v=qFxvTztNEuU

気づき(覚醒•目覚め)の後の行動

ルパートスパイラ:全てを貴重な物として接しよう 〜おとぎ話〜

ルパートスパイラ
( 動画は一番下にあります☆ )

本当の私たちが見つめる世界は
(見ているわけではないんですけど)

全てがキラキラしていて、

全てが歓喜に満ちています。

世界の本質は喜びそのもの。

二元の世界では、それを忘れがちですが、

意図してみるだけで

不思議と、

世界はそのように見えだします。続きを読む →

「これが私だ」と決めているもの

悟りの問いかけ

こうやって、生まれてから死ぬまでを眺めていると、

私たちは常に変化していることがわかりますね。

突き詰めると、生まれる以前にも受精があり、細胞分裂があり、
死亡してからも灰となり、土となり、
それは何かの一部になって….
永遠の環の中にあります。

悟りの問いかけ

変化は目に見えないこともあるけれど、一度たりとも、固定されたことがありませんね。

それは、川の流れのようなもの。

川の中には「流れの早いところ」や
「うずまきになるところ」があるけれど、

それはいつでも1つの川であって、
決して切り取ることができず、
どこかの部分が単独で存在したことがありません

でも私たちは、「私の目」で確認できるから、
うずまき」などと名前で勝手に区別しだします

でもその「うずまき」を突き詰めると、人によっては、
「波の薄くなっているところまでー」と思っていたり、
「白い泡のところまでー」と思っていたり。

どこからどこまでを渦巻きと呼ぶかは、人それぞれです。

そこで私たちは、ここから5センチまでがうずまきと呼ぼうとか、
流れの早いのは「善」で
流れの遅いのは「悪」にしようと決めだします。

悟りの問いかけ

そうやって切り取ったのは「思い」であって、

常に変化しているものは、

一度も

独立した個体として存在したことがありません。

 

変化するものは、個体として
正確に数えられないのです。

 

変化する川の流れの中で、
「ここから ここまでが うずまき」という概念が現れただけ。

 

変化する現象の流れの中で
「ここからここまでが 私 」という概念が現れただけ。

 

変化する現象の一部に、それがひもつけられただけです。

 

それは、どんな名詞でもー
テレビでもビルでもー同じこと。

鉄が固まって釘となり、
部品が組み立てられ、
さびとなったり、
朽ちて土となったり、
粉々になったり、
どんな名詞も、変化という川の流れの中にいます。

私たちは、一度も一人ぼっちだったことがありません。

私たちは、一度も世界から切り離されたことがありません。

 

私たちは、一度も実在したことがないのです。

 

「これが私だ」ー

世界からあなたを切り取るのは、

個の私の思い(錯覚)なのです。